約 391,326 件
https://w.atwiki.jp/filinion/pages/433.html
魔術、錬金術の歴史 以下は異端とされる魔術に対し、賛美する内容があったとして79年に焚書指定されたラミノフ・グレイン書「半島における秘術の歴史」の抜粋である。 錬金術の歴史を語るにあたって、アスガルド半島における魔術の歴史も重ねて記す。 ◇古代 古代アスガルド半島において、魔術の歴史は古く、古代史には「古より、ものを物と換えるものあり」と記されている。このころには魔術、呪術、奇跡など様々な呼ばれ方をしており、騙りも多かったといわれる。 ◇魔術の時代 一般に魔術師達が互いの技を競い、組織をつくりはじめたのは南北朝時代になってからといわれる。これには戦乱の影響が色濃く出ており、国々を渡り腕を売る魔術師が多かった。 この時代は”個の力”が重視されていて(竜や巨神、狂戦士など)、魔術師の地位は格段に低かった。 しかし”魔術の始祖”と呼ばれる「ローナン・マギ・グラーフ」により魔術は華開いた。彼は優秀な魔術師であり、同時に政治家だった。 魔術師の組織作り、および地位向上に大きく貢献し、宮廷魔術師(軍師とも呼ばれる)という地位についたのもかれが最初といわれる。 これにより、小規模ではあるが半島に魔術師の育成機関が建設され、研究は進んでいった。様々な秘術が開発され、奇跡と呼ばれるものも多く作り出された。多人数で行う「儀式魔法」もこの頃作られたといわれる。 ”魔術の始祖”「ローナン・マギ・グラーフ」 現在の錬金術の基本にもなっている四大系統(彼自身は八大系統説を唱えていた)を確立させた人物。また、ギルドの設立等を行い魔術師の地位を築きあげた。彼が築いた5つの塔は、以降魔術師たちの聖地となる。 しかし晩年は不死の研究に没頭し、自らの塔で誰に見取られること無く死んだといわれる。 ◇錬金術の発展 南北朝時代の半ばになって、物理学や科学といったものが注目され、一部で研究が進んだ。 これに知識欲の高い魔術師たちが参加し、魔術を応用して研究が進められた。彼らの多くは争いのための魔術に嫌気がさし、自らの技を「錬金術」、自らを「錬金術師」と呼んだという。 なぜ錬金術というかは、常に資金に困っていた彼らが、金を作り生計を立てていたからという風説と、錬金術の最高目標である「賢者の石」が金を産み出すからという説がある。が、「物質のなかには最高のものである金が眠っている。私達はそれを捜し求める。」という言葉が錬金術師の名称を産んだといわれる。 これらの研究施設の多くが南地方に集中してたこともあり、北の魔術、南の錬金術という時代が続いた。 ”錬金術師”「グランデン・アーグリフ」 正史において唯一「賢者の石」を精製した人物と記されている。彼はそれが戦争に使われることを恐れ、いっさいの記述を残さずに廃棄した。よって「賢者の石」の製造方法はその研究に関わった者達の口伝等、不確かなものしか存在しない。 いっさいの地位を拒否し、錬金術師として各地を放浪しながら研究をしており、彼についての伝説、伝記は多く残されている。四大系統全てを操ることができたともいわれる。 他に「賢者の石」を精製した人物としては、”堕落の聖人”「カエラス・オルレウス」、”殲滅軍師”「ベルザイン」などが噂されている。(注:正史には記されていない) ◇「黄昏の時代」の終焉 「統一戦争」において、戦乱の終わりと平和を望む錬金術師たちは、法王庁の支配を難なく受け入れた。 それに対し魔術師たちは他の「竜」、「巨神」とともに最後まで抵抗した。そのため魔術は異端とされ、法王庁の征伐対象となる。 結果として”ローナンの塔”の3つが破壊され、ブラウデン地方に残っていた”ローナンの塔”に追い詰められた魔術師達は、自らの秘儀・秘宝とともに炎の中に消えていった。(最後に残る”ローナンの塔”の所在地は今なお不明である。)この”ローナンの塔”の陥落を受け、魔術師達の抵抗とその歴史は終わりをつげた。 魔術師達が歴史にも残らぬ敗北を喫したのは、「第一種聖剣」所有の聖騎士には彼らの技が通じなかったからといわれている。 ◇錬金術師協会の設立 もともと錬金術師達にもギルドは存在していたが、点在しており組織的なものは少なかった。それが統一され、‘錬金術師協会’が設立された。これは魔術師ギルドなども統合・整備されたもので、錬金術を使うものは必ずここに登録されることになる。また‘賢者の塔’’国庫大図書館’などもこの時期に建設された。 協会は魔術師ギルドの組織図を参考に、三段階の学校制をしいている。第一段階である「小等錬金学院」は小規模の都市なら建設されている。基礎として物質についてや自然学なども教えるため、錬金術を学ぼうとするもの以外にも商人などの子も勉強している。 卒業前に錬金術師を目指すものは適性検査をうけ、資質を認められた者は「上級錬金学院」に進学する。 これは各大都市にのみ存在し、本格的に錬金術の勉強を行うのはここからである。ここを卒業することで錬金術師の資格が認められる。飛び級制になっており、早い者で4年、平均で6年で卒業となる。しかし、卒業者より中途で挫折する者の方がはるかに多く、10人に一人程度しか最終試験には合格しない。 卒業し、晴れて錬金術師となった者の中で、さらに研究を行いたい者が進むのが「国家錬金術師」であり、その研究機関である「アカデミー」に所属することである。「アカデミー」に進学できるのはおよそ50人に一人、そこから国家錬金術師になれるのは、さらに10人に一人程度といわれている。 国家錬金術師は、協会による実力と研究内容の評価によって、1~7階位に分けられており、上位のものほど研究に対する援助等が大きく、特権が多い。国家錬金術師については他書にて詳しく記されており、そちらを参考にされたし。 現在に、錬金術は一般の生活にも受け入れられ、重宝されている。 「錬金術は市井のためにこそあれ」 名は知られぬ錬金術師の残した言葉を最後に。この書の筆を置く
https://w.atwiki.jp/thedeepchorokh/pages/12.html
1919年 1月 11日、イギリスのモニカ・ヴァイスヴィント将軍が徴税官ススム・ヒノモトをバトゥミの知事に任命。 12日、イギリス軍からツムギ・シライシ・ナンヤイネにナンヤイネの統治権が移譲。 2月 グルジア民主共和国で議会選挙が行われ、定員130人の内―メンシェヴィキが109人当選し、メンシェヴィキ政権が成立した。(史実通り) 赤軍が白軍の重要地域であるドン軍管州を占領。 3月 ナンヤイネと白軍間でアカリ・ススム協定(バトゥミ協定)が締結。 ドン管区で赤軍に対しヴョーシェンスカヤの蜂起が発生。 アナトリア半島黒海沿岸部の数都市がフランスにより占領。 オスマン帝国南東部がイギリスにより占領。 カルス共和国がグルジアに侵攻しグルジア軍に撃退される。 4月 白軍がウクライナ東部を占領。 イズミルがギリシャにより占領。 カルス共和国がナンヤイネに侵攻しグルジア軍に撃退される。カルス共和国滅亡。 新貨幣ヤイネ発行。 ナンヤイネ・メンシェヴィキ第1回党大会開催。 5月 19日、トルコ革命勃発。 白軍によりクルスクが陥落。 赤軍によりベルミが陥落。 ナンヤイネで農地改革が発令。 カルス共和国分割を巡りカルス会談が開催 6月 ヴォロネジが陥落。多数の赤軍将校が白軍に投降する。 ロシア北西軍フィンランドに退却。 アルメニア第一共和国によりアラス共和国滅亡。(史実) 7月 赤軍によりウファが陥落。 白軍によりオリョール、トゥーラが陥落。白軍がモスクワ目前までに迫る。 アメリカからカフカース調査団が派遣。 ナンヤイネ徴兵令発令。 8月 モスクワ攻防戦開始。 ナンヤイネにガージャール朝から知識人が亡命。 赤軍によりエカテリンブルクが陥落 9月 ネネカ・パシャがアンカラから撤退。 ナンヤイネ・メンシェヴィキの入党審査が厳格化。 フランス大使館がバトゥミに設立。 ガージャール・ナンヤイネ軍事協定締結。 10月 赤軍により臨時全ロシア政府の首都オムスク陥落。 ツムギ親衛隊成立。 アゼルバイジャンがカスピ海艦隊の一部を購入。 ナンヤイネ共和国憲法公布。 アナトリア半島南東部が英軍から仏軍へ移管。 11月 白軍によりモスクワが奪還されロマノフ朝復興宣言がなされる。 ギリシャ国王が一般女性と結婚しローマへ駆け落ちする。 ナンヤイネで初のラジオ放送がなされる。 グルジアでカフカス3カ国間会議開催 12月 フォーク将軍イルクーツクにて処刑。残存兵は少ない犠牲で撤退に成功。 ネネカ派がマラティヤで勝利。アルメニアが戦線に部分動員をかける。 アメリカの石油メジャーがアゼルバイジャンと契約。 バクー-トビリシ-バトゥミ鉄道開通。 ナンヤイネ各地で診療所が再建。 1920年 1月 フランス軍、アナトリア半島南東部から撤退。 ナンヤイネで戴冠式が挙行、王政へと移行する。 2月 オスマン帝国でクルド人の民族自決を認める布告が出される。 ナンヤイネでロシア語使用の拡充がなされる。 3月 シリア国民会議がヒジャーズ王国王族を国王としてフランス委任統治領シリアで独立国家を作り始める。 ナゴルノ・カラバフ紛争が再発しアゼルバイジャンがカラバフの半分を占領する。 ボリシェヴィキがバトゥミで活動を開始する。 4月 ポントス蜂起がトルコ北部沿岸部全体に瞬く間に広まる。 尼港事件をきっかけに日本が東部戦線への出兵を強化する。 5月 アダナが陥落しフランス軍が撤退する。 ガージャール朝のシャーがナンヤイネに訪問する。 ザカスピ暫定政権がほぼ赤軍に攻略される。 6月 ロシア東部軍がカザフ草原へ東進。 グルジアがナンヤイネに対して最後通牒を通告。 7月 ブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国が滅亡し赤軍の支援の下で、ブハラ人民ソビエト共和国とホラズム人民ソビエト共和国が成立。 シライシ石油会社設立。 ナンヤイネ王国第1回選挙実施。 8月 フランス、セーヴルにて講和会議が行われる。 イスラーム連盟成立本部はメッカとメディナに置かれる。 10月 グルジア・ナンヤイネ戦争の開戦 女王ツムギのロンドン演説 アイルランド問題についてと引き換えを約束する 11月 バトゥミ陥落。グルジア軍バトゥミに入場 アブハジアのジハード宣言で、大反乱。ロシアとの陸路国境が封鎖される アルメニアがグルジア国境に兵士を集めて牽制 アゼルバイジャンがグルジアに対してジハード宣戦布告。貿易停止、国境兵派遣などを実行し さらに総動員開始 イスラーム連盟会議。ヒジャーズ王国の決議案によりジハード宣言。経済制裁。オスマン帝国はボスポラス海峡の閉鎖を明言 キリュウがアーサー評議員への拷問を指示 オスマン帝国カリフペコリーヌ。イスタンブル~アルトヴィン~ナンヤイネ地域へ4000のカリフ軍と共に移動 女王ツムギ、アイルランドにてアーサー・グリフィス会談。ジョージ5世会談。モニモニ母と会談。リンクと会談。ローマ会談を準備 ナンヤイネ北部沿岸地域の住民反乱。グルジア軍によって鎮圧され虐殺ジェノサイド。死者の一部は凱旋門として飾られる アゼルバイジャンが総動員完了。アゼルバイジャン・グルジア戦争勃発 英愛のローマ会談に女王ツムギ立ち合い 12月 女王の親衛隊、カリフ軍の共同作戦「深きチョロヒ作戦始動」 大勝利でバトゥミ奪還 国防軍の逆襲作戦クーロケダの戦い(冬の眠り作戦)始動。大勝利。グルジア軍の組織的勢力消滅。国防軍と評議員たちもバトゥミ帰還 ナンヤイネが北部沿岸地域を奪還。グルジアに占領された国土の全てを解放する 南ロシア軍がグルジアと断交を宣言。貿易を中止し、ドルジ将軍にカフカース方面軍を任せる。アカリ大佐がカフカース全権大使に任命される グルジアでクーデター。バーン・ラインハルトがキリュウを排除。即時講和・領土保全・経済制裁解除のために政権を率いる アゼルバイジャンがグルジアと停戦。3日後にアルメニア参戦の影響で停戦破棄。再度侵攻開始 アルメニアがグルジアに宣戦布告 国連総会で女王ツムギとユニの演説により、理事会で調査団派遣が決議される(1921年1月以降に出発予定) アルメニアがグルジアのトビリシ南の山岳地帯を奪取し、アルメニア系住民を扇動しつつトビリシに侵攻 1921年 1月 ナンヤイネの臨時評議会でアルメニアとの不可侵条約を更新しないまま、アゼルバイジャン寄りの中立を保つことに トビリシ攻防戦によりアルメニア軍がトビリシ破壊。バーンが自殺し、多数の議員と市民が死亡。グルジア民主共和国滅亡 アルメニア軍によってキリュウ傀儡政権樹立(首都:ヴァジアニ) アルメニアがアハルツィヘ郡の一部を占領。トルコ系など8000人の虐殺。激怒したカリフが軍をアルメニアに向ける アゼルバイジャンが第二次サルティチャラの戦いで、グルジアの残存戦力を殲滅。トビリシまで到達 アルメニア軍とアゼルバイジャン軍による第二次トビリシの戦い。アゼルバイジャン勝利で、トビリシ大破壊が起きる グルジア軍4000とランスロットがナンヤイネに亡命 ナンヤイネがアハルツィヘ西3村(アディゲ、ウデェ、アバストゥマニ)を占領し、ポティ港に進撃。ポティはランスロットの説得で降伏 キリュウが監禁場所から脱出。ヴァジアニ村で蜂起。アゼルバイジャン軍に囚われ、ナンヤイネに護送される グルジア西部でラインハルトの要請でコウメイ政府樹立。ナンヤイネを国家と認め、講和を前提に休戦協定を求める アゼルバイジャンがグルジアのルスタヴィ占領後に、列強の仲介を受け入れてアルメニアと停戦受諾 英愛仲介成立 女王ツムギ、ナンヤイネに帰還。カリフと面談。アルメニアとの戦争を止めるため、ヴァチカンの仲介取り付け 2月 ナンヤイネがグルジア戦争の休戦条約(アルトヴィン協定)成立。ナンヤイネ・グルジア戦争終結 アゼルバイジャン・アルメニア休戦条約(ルスタヴィ協定)成立。英仏羅波による監視成立 カリフ・アルメニア協定成立。これを受けてカリフ軍が進撃を止めて解散。アハルツィヘで教皇とカリフの歴史的会談が行なわれる 3月 アーサーとツムギがユニエイト教会を立ち上げ、正教からカトリックに改宗する オスマン帝国の反乱が完全に終結。ネネカ・パシャが自害する クロンシュタットで水兵たちが反乱とストを開始。フランスが支援する 4月 赤軍がクロンシュタットの反乱が広がるの抑え込む。その際にペトログラードで9万人の市民が犠牲に。水兵たちは島に退却 白軍がノブゴロドを奪取する。赤軍はペトログラードを放棄して東部へ撤退する エンヴェルがネネカ派の残党を率いて亡命希望。ナンヤイネ政府は約束通り残党を受け入れるがエンヴェルは受け入れず。彼は赤軍へ イスタンブル協定が結ばれ、オスマン帝国の領土が更に削られる 対白軍安全保障の一環でアルメニアとの協力を取り付け、アゼルバイジャン・アルメニア・ナンヤイネの小協商が成立 ナンヤイネ―グルジアの講和交渉が決裂する。コウメイ政権が白軍に土下座する方針に ランスロットが亡命将兵らを率いて進撃し、コウメイ政権がクタイシに撤退する 赤軍とカフカースの指導者間で10年間の不可侵協定を締結(SM(ススムミコ)=RS(モロトフスターリン)協定) ウクライナの独立派やクロンシュタットの反乱勢力と協力関係に 5月 ランスロット軍がクタイシを攻略。コウメイ政権が壊滅。ミカ王女が救出され、ナンヤイネに送られる ダーダネルス・ボスポラス海峡が事故の名目で封鎖され、ロシアの海上輸送ルートが途切れる カリフの呼びかけでロシア内のイスラム教徒が動揺する キャルとマクギリスのカフカースの独立をかけた交渉が決裂し、英国が反白軍に動く。セヴァストポリ港が破壊される ロシア帝国とカフカース連合軍が開戦。グルジア軍がオセチアを攻略。アブハジアと山岳共和国が連合軍に降伏 マハチカラ戦線で、アゼルバイジャン軍が北カフカースのドルジ軍に完勝する 6月 タカネ=フョードロヴナ皇太后の仲介で講和会議が開催。ロシア・オスマンおよびカフカース3ヵ国で黒海条約が結ばれる カフカース諸国の独立が認められ、グルジアの占領地の整理や存続が決まる 女王ツムギがナンヤイネ本土に加え、グルジア諸邦(旧ズグディディ、オズルゲティ、セナキ郡)、アハルツィヘ自由都市の統治者となる 赤軍はこの結果に激怒するものの、不可侵協定は軍事的メリットを鑑みて維持する ルドラサウムとキリュウの戦犯裁判が行われ、虐殺の責任で死刑判決が下る。多くのグルジア軍捕虜が重罪となる 7月 国連調査団とカフカス問題を調査。ナンヤイネ内でのグルジアによる虐殺が認定される アーサーがスパイであることを告白。評議会を辞任する。後任にハメドリが推薦したデルウハが就任 アルトヴィン・オルティンスキー郡が住民投票を経てナンヤイネに編入される ナンヤイネ・グルジア戦争(ナンヤイネ独立戦争)の死者23000人を弔う国立墓地が決まり、追悼式が行われる 評議会がアハルツィヘの都市計画「ミル・ミール」を承認する 10月 赤軍の大反攻で白軍が潰走。マクギリス将軍は亡命に追い込まれる イレイナがイルクーツク以東まで撤退し、日本を後ろ盾に緩衝地帯となる国の建国を目指す 12月 ボリシェヴィキ政権の通達により、カフカース諸国は独立こそ維持されるものの半ばソ連の保護国・衛星国と化す 1922年以降 1922~31年 ナンヤイネの黄金期 栄光と矛盾 欲望と格差の拡大 ツムギ女王とマコト王子の結婚。エジプトとは準同盟国に ナンヤイネは急速な経済成長を遂げるが、戦争の爪痕の色濃い北部は人口流出でとり残される 独立派(王党派)と社会主義派が政権を担う。ミコとアリス(初代)が政治の中枢に 1932~39年 アゼルバイジャンの野望 再び始まるカフカースの分断 1929年に始まった世界恐慌の影響がカフカースでも本格化。ナンヤイネの工業生産は最盛期の1/5まで落ちた時期も 新グルジア王国に対して、アゼルバイジャンはクタイシ以東を要求し、アルメニアは治外法権などを要求。アルメニアの要求が通る ナンヤイネは、選挙に圧勝した独立派(王党派)が社会主義派を追い出し、事実上の独裁政権に。チノが議長に就任してチノーアリス体制に 独立派はハンガリーを見習った政治体制の構築を図り、権威体制を確立。日米の政権を見習うなどして、不況から脱出 インドで独立運動。女王ツムギの仲介により5-10年の独立を前提として、イギリス連邦に加盟。イギリスはこの影響で弱体化 1939~45年 第二次カフカース大戦の地獄 ソ連の侵攻 新グルジア王国が周辺国と組んでアゼルバイジャンに宣戦布告。ナンヤイネも出兵し、イスラーム連盟との仲が悪化する。誠とも離婚寸前に 1943年に第二次カフカース大戦終了。アゼルバイジャンが第一次カフカース大戦で得た領土を全て喪失。この戦争で数十万の死者が出る ナンヤイネは協力の見返りでクタイシを割譲 1939年にインドで、大戦参加を拒否する大規模ストライキ。英国が屈服して独立が確定する 独ソ戦で日本は動かず。大戦にあまり関与しないまま極東利権を守って体制を維持する ウラジオストックを首都にした極東ロシア帝国(イレイナが建国に関与。人口1500万人)が、日本を後ろ盾にして極東を支配する ドイツに勝利したソ連がカフカース諸国を保護国化。世界大戦と第二次カフカース大戦で疲弊した欧州やカフカース諸国になす術なし 1945~59年 カフカース分割 クタイシ動乱の悲劇 1945年、ススム副議長が引退。女王から公爵位を贈られる 独立派が単独過半数を獲得。アリス2世が主導権を握り、チノが副議長として評議会入り アリス2世と一部関係者により、対ソのために原爆作成を目指す「テトラグラマトン計画」が極秘に始まる 北部沿岸地域が核開発の実験場に選ばれ、ミコが悲憤慷慨。彼女が共産主義に転向する一因になる 戦後復興と経済は安定するものの、検閲を強めて集会・表現の自由が抑圧される 平等・自由・友愛を求めて、10万人以上が集まるクタイシ動乱が起きる。改革要求が通り、集会の自由や検閲緩和など漸進的な改革が実施される 1947年、ハメドリ評議員が引退 1954年、宰相キャルが死去 1959年、ペコリーヌがカリフを辞任 1960~72年 バトゥミの春と左右テロ 表現の自由の促進により過激な意見の抑圧が緩み、左右の過激派が跋扈する時代に 選挙制度の改革を成し遂げたアサミが、陸軍大将を辞めて評議員となる 独立派が第1回以来勝ち続けた選挙に惨敗。トルコ派に議長を譲りつつ、連立与党を形成。共産主義派が第一党に 民主化の推進や自由と文化は拡大するが、経済は停滞、治安は悪化、軍事力は低下する 1965年、リーボック評議員が引退 1968年、バトゥミの春。強い請願を受けて女王ツムギは、ナンヤイネ文化の大事な1要素としてイスラームを積極的に公認。同化的スタァ政策が後退 1972~89年 ソ連のアフガニスタン侵攻 ソ連の揺らぎとナンヤイネのイスラームへの回帰 分極化で連立工作も上手くいかず、国王大権でエルドアンと三代目ヒノモト侯爵が議長に選出される 1975年、30年渡って評議会の副議長を務めたチノが電撃解任される 1976年、外交陳情周りを行っていた女王ミカがオスマン帝国の地震に巻き込まれて死亡 1979年、アリス2世がイランおよびグラマン社から秘密裏に15機のF-14を導入する ソ連がアフガニスタンに侵攻。女王ツムギは30年ぶりにイスラーム連盟会議に出席して演説。カリフはアフガニスタン支援をウンマとして行うと宣言 ナンヤイネ政権もアフガンに義勇兵・秘密の物資支援を行う 1980年、ユニ評議員が引退。数年後に死去する 1985年、ゴルバチョフがソ連でペレストロイカの開始 1988年、ミコ評議員が死去 ソ連の衰退でナンヤイネの各勢力が動揺。グルジア系の民族意識が強まり、グルジア諸邦の今後の展望(独立か残留かなど)が議論される 女王ツムギの1人息子が死去。ツムギの孫(ペコリーヌの姪が母)が皇太子となる 1989年以降 冷戦の終了 ナンヤイネの新たなる出発 ソ連崩壊で、1つの連邦は12の共和国へと生まれ変わる。東欧、モンゴル、カフカースから駐留軍が去り、諸国が自由を手に入れた ナンヤイネで国民投票。王政の維持とグルジア諸邦の残留が決まる。女王ツムギの退位 国権の最高機関は評議会から王国議会に移り、国王大権も大部分が廃止され、実質的にも立憲君主制に移行 史実 1919年以前 15世紀後半 バトゥミがオスマン帝国に占領される。バトゥミの名称が定着したのもこの時期。 1863年 オスマン帝国がラズィスタン県の中核都市にバトゥミを指定。バトゥミの街が拡張され、領事館などが設置される 1877年 露土戦争開始、バトゥミを巡る争いも発生する。 1878年 ロシア、オスマン帝国間でベルリン条約が締結。バトゥミ、カルス、アルダハン、ドゥバヤジトはロシア帝国のものとなる。 1883年 ドミトリー・メンデレーエフの提案によるバクー-バトゥミ間のパイプラインが完成、以降バトゥミは急速な発展を遂げる。 1901年 バトゥミが社会民主主義運動の中心地となり、スターリンがバトゥミを拠点として活動を開始する。 1902年 1月にロスチャイルド製油所で大規模なストライキが行われた。その後もカフカス地域ではバクーやオデッサでのゼネストのようなストライキが頻繁に発生する 1905年 バトゥミでゼネスト発生。 1912年 武器密輸の監視の為にバトゥミに砲艦が常設される。 1914年 第一次世界大戦が勃発。ロシア帝国が中東戦線に進出。カフカス地方が前線となる。 1917年 2月、ロシア帝国で二月革命が勃発。 3月、カフカス特別委員会(オザコム)が設立。 11月、ロシア帝国で十月革命が勃発。 12月、エルジンジャン休戦によりロシア軍がカフカス地方から撤退。 1918年 1月 2月 3月 ブレスト=リトフスク条約が締結。ロシア帝国がトルコとの国境付近のアルダハン、カルス、バトゥミに対するすべての権利を放棄。 オスマン帝国とロシア帝国とザカフカース委員会(セイム)の間でトレビゾンド平和会議が開始する。ザカフカース委員会はバトゥミ、カルス地域の独立を主張するが却下される。 3日赤軍は、バトゥミ、カルス、アルダハンのイスラム教徒にオスマントルコの支配下での自決権を容認。 30日、ナゴルノ・カラバフを巡り、アルメニア・アゼルバイジャン戦争が開始。 4月 14日、オスマン帝国軍がバトゥミを併合。 22日、ザカフカース民主連邦共和国が成立。 5月 11日、山岳民主共和国がバトゥミでトルコの支援の元、独立宣言。 26日、ザカフカース民主連邦共和国が解体。グルジア民主共和国が独立宣言。 28日アルメニア第一共和国が独立宣言。アゼルバイジャン民主共和国が独立宣言。ポティ条約が締結されドイツとグルジアが結び付きを強める。 6月 4日、バトゥミ条約が締結され、オスマン帝国はグルジア民主共和国に対して、バトゥミ、アルダハン、アカルチケ、アカルカラキの所有権の放棄を強要。バトゥミのオスマン帝国による実質的な統治が開始 7月 8月 9月 10月 30日ムドロス休戦協定が締結され連合国とオスマン帝国の戦争が終結する。 11月 28日、アルメニア・アゼルバイジャン戦争が終結。 12月 7日~18日にかけグルジア・アルメニア戦争が行われるが両者共に目的を達成出来なかった。イギリスの仲裁により終結 1919年 1月21日、イギリスがオスマン帝国から統治を引き継ぎ、ジェームズ・クック・コリス将軍をバトゥミの知事に任命した。そして、ロシアの士官候補生プリリディアン・マスロフが議長を務めるバトゥミ評議会を設立した。 4月、イギリス軍による軍政が開始され知事は評議会を解散する。 1920年 1月、ロンドン会議により協商国からザカフカース諸国に事実上の独立承認が与えられる。 3月、南ロシア軍は敗退を繰り返しこの月までに北カフカ―スより撤退。クリミア半島まで追い詰められる。 4月、アントーン・デニーキンが南ロシア軍総司令を辞任。イギリスへ亡命する。南ロシア軍の指揮権はピョートル・ヴラーンゲリに引き継がれる。 4月、イギリスがバトゥミを自由港とすることを宣言。国際連盟の保護領としてイギリス、フランス、イタリアによる共同統治が行われる事が決定される。 4月27日、北カフカースで南ロシア軍を打ち破った赤軍がアゼルバイジャンへ侵攻開始。翌28日にバクーが占領されアゼルバイジャン民主共和国は滅亡。アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国が成立。 5月7日、モスクワ条約(1920)が締結。白軍勢力のグルジアへの亡命を阻止する事を条件にソビエトがグルジア民主共和国の独立を承認。 7月、イギリスが地域全体をグルジア民主共和国に割譲し撤退する。 9月、ザカフカース地方からイギリス軍の撤退がほぼ完了する。 11月7日~11月17日、赤軍がクリミア半島に対し攻勢作戦を決行。この作戦によりヴラーンゲリは、南ロシア軍残存戦力をクリミア半島より撤退させ黒海沿岸より白軍勢力が駆逐される。 1921年 2月16日~3月17日、赤軍がグルジア民主共和国へ侵攻開始。17日にグルジア・ソビエト社会主義共和国が成立。 2月23日~3月16日、トルコ軍がグルジア民主共和国へ便乗侵攻。アルダハン、アルドヴィンが2月中、バトゥミが3月中に占領される。 3月18日、赤軍に指揮されたグルジア・ソビエト社会主義共和国の軍隊によってバトゥミが再占領される。 10月13日、カルス条約により、トルコ共和国がバトゥミ港を自由に使用する権利とグルジア・ムスリム人に自治権を付与するという条件で赤軍にバトゥミを割譲。バトゥミはアジャリア自治ソビエト社会主義共和国の首都になる。
https://w.atwiki.jp/ch-spekon/pages/17.html
1974年、創立者・池田大作先生は記念すべき第一次訪中の折、北京に滞在していたジャーナリスト西園寺一晃氏と会談されました。 会談の中で創立者は、「過去の不幸な歴史をふまえたうえで、これからの若い世代の誠意に基づいた交流を考えなくてはならない」と語られ、「(今、一番日中関係において重要なことは、)日中友好を担う青年と青年の交流が大事なんです」と話されました。 そして具体的には、語学の必要性を訴えられ、少しでもまじめに中国語を学ぶ青年を増やしたいとの考えで、創立者自ら中国語弁論大会を発案されたのです。 これを受けて、1974年10月27日、第一回中国語弁論大会が開催されました。 創価大学の中国語弁論大会は、創価大学中国研究会の学生主催の弁論大会で、学生手づくりの大会として発展を続けています。 そして、日本においては「二大中国語弁論大会」の一つとして定着し、第二十回からは「創立者杯」大会となり、さらに日中友好の意義を深めています。 弁論大会というと、語学力の競い合いになってしまいがちです。しかし創価大学中国研究会の弁論大会は、弁士は老若男女を問わず募集し、友好があります。また、何のためかという目標が明確であり、これからの日中友好を担う人材育成の場所、また日中友好への思いを共有する場所となっています。
https://w.atwiki.jp/ebirenjai/pages/25.html
正史 2007年のEvi★祭りの折に端を発する。 突発的に大量発生した海老シリーズを統べるため創設された部隊。(晒し発の部隊である) 当初、そのVIP的体裁を醸す海老シリーズをエル原住民は危惧し、ある種の排斥感情も産まれたようだが、裏方部隊としての活動が主であったために時間とともに馴染んでいった。 飽きればいなくなるだろうと思われていた海老だったが、当時の半数近くがエルに定住した。 全盛期は80名近い海老が所属しており、(実際には部員数が限界だったために分隊、また除隊待ちの海老も多く、正確な数は不明となっている。)部隊としては中堅以上の規模であったものの、長い時間の経過と共にアクティブな部隊員は減少の一途を辿り、みるみる内に規模は小さくなってった。 その後の部隊人数改正アップデート等を経、さらに二度にわたる部隊再編を経て現在に至る。 ※ 現在裏方については一部の海老しかこなしていないため、裏方部隊ではない。 再編 第一次再編 海老レンジャイ結成一週間後再編。 かつての海老部隊長レッドが腹痛のために入院し(以後永遠入院)、リーダー権の所在が行方知不になったため、当時レッドの代わりに委員長として海老の人望を集めていたブルーが二代目海老レンジャイのリーダーとなる。 第二次再編 2007年5月、部隊機能のアップデートにより部隊員数が200名まで登録可能になる。 これを機会として、行方不明になった海老を整理するために再編される。 と、同時に分隊化されていた海老のサブ海老部隊も統合された。 2008年1月11日に創設一周年を 2009年1月11日に創設ニ周年を迎えた。 2010年1月11日に創設三周年を迎えた。 海老広場 かつての海老の溜まり場。 海老の減少につれ死語と化してた歴史もある。 "旧リベルバーグ 居住区(F.2)壁側" であったが首都の新生と共に移転。 現在の溜まり場は"新首都入ってすぐ横、右ステッポの川端"である。 部隊員募集について 特に募集はしていないが、入隊拒否もしていない。 入ろうと思えば誰でも入隊が可能で、脱退も自由である。 かつての暗黙ルールとしてキャラクターネームに「海老」が冠されている事と、 海老以下が「色名」という組み合わせである事が入隊条件であったが、今はもうそんなことはどうでもいい。 見た目どおりほぼ身内部隊化が進んでおり、 多少一般常識に欠け、癖のある事が許せる海老は歓迎される事だろう。 海老にまつわるネタ 「僻地厨と化した」とネタになった事がある。
https://w.atwiki.jp/katayoku/pages/101.html
文字通り、ミニの黒歴史(以前に起こった苦い思い出)である。怪盗はよく「ミ ニ 黒 歴 史」と文字に間隔を空けて言ってくる。文字に間隔を空けられると何か緊張感が伝わってくる。
https://w.atwiki.jp/dactiltoeb/pages/4.html
黒歴史人物 ジュポジュポ CNアナル 勃起ちんこ ケンタッキーフトイゾチンチン 金玉バラモス マンコ └名前の卑猥さで濁たんの逆鱗に触れた人達 テラワ=ロス └光の属性を身に纏った光の騎士 ワロス=テラ └闇の属性を身に纏った闇の騎士 濁死ね。糞管理人が └誹謗中傷。削除されない方がおかしい 猫舟ポンタール号 └罰ゲームで伝言板にジュウシマツ住職のAAを貼る。濁たんの逆鱗に触れて削除された人。 嘲る蛇 └ON狩り魔 岩清水 毛糸(2鯖) └大戦時、建国しすぎで濁たんの逆鱗に触れた人名 毛糸 LOW ナトゥー └卑猥な国名。累積でBAN 418式 献専・参 プレイステーション3 └建国即戦略&掲示板で戦略対象国の自演をほのめかすというどこかの工作 乳酸菌 └一日のうちに連続建国、文章国など、黒歴史条件をことごとくクリアし見事に濁たんの逆鱗に触れた人名 Ω └卑猥な国名。累積ではなく一発BAN ガルガンチュア └同上。一発BAN maito └三人目の一発BAN。卑猥+文章国。 123456789 ├同名および類似した国名で連続建国 └キャラ名が同じままに再登録後、再び同様の行為を繰り返したため、再度デリ カルカン └一発BAN。並び替え卑猥国名(安価建国)。 トナカイ (CN:コ━(゚∀( * )━イ! ) └一年以上上記のCNで通してきたが、突然何の警告も無しにBANされた。
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/8358.html
新宿歴史博物館 しんじゅくれきしはくぶつかん 東京都新宿区にある博物館。 新宿区の郷土資料を扱う、新宿区立の博物館。 指定管理者として、公益財団法人新宿未来創造財団(愛称「レガス新宿」)運営している。 所在地 東京都新宿区三栄町22番地 料金 300円 時間 9:30~17:30 休館日 第2・4月曜日(祝日の場合は翌日)全館燻蒸作業日(12月)年末年始(12/29~1/3) URL http //www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/ 地図 2016-08-28 4歳の長女と一緒に行ってきた。 内藤新宿の模型 四谷にあった、菓子店。新井屋。 東京市電5000形。 文化住宅 ロマンスカーNSE 点字ブロックが削りだしですごい。初めて見た。 関連項目 2016-08-28 2016年度/写真日記 2016年度/行った所写真 一言日記 この項目のタグ 2016年 2016年8月 2016年8月28日 博物館 子連れ 新宿区 施設 東京都 タグ「新宿区」「施設」がついた項目 おとめ山公園 / 甘泉園公園 / 消防博物館 / 新宿NSビル / 新宿中央公園 / 新宿歴史博物館 / 東京都庁舎 / 東京理科大学近代科学資料館 / 戸山公園 / 明治神宮外苑 / 明治神宮外苑アイススケート場 / 目黒天空庭園 / ラカグ タグ「博物館」がついた項目 足尾銅山観光 / 江戸東京博物館 / 江戸東京たてもの園 / 青梅鉄道公園 / 大山祇神社 / 科学技術館 / 航空科学博物館 / 国立科学博物館 / 小平ふるさと村 / 消防博物館 / 新宿歴史博物館 / 千葉県立房総のむら / 伝承園 / 東京大学総合研究博物館 / 新潟市歴史博物館 / 日本民家園 / 博物館網走監獄 / 博物館明治村 / 福井県立恐竜博物館 / ふじさんミュージアム タグ「東京都」「子連れ」がついた項目 2014-08-09 / 2014-10-11 / 2016-06-05 / 2016-06-11 / 2016-09-17 / 2018-02-12 / 2018-03-18 / 2018-04-08 / 2018-05-04 / 2018-06-17 / 2018-07-08 / 2018-12-02 / アグロピッツェリアダパンダ / 石塀小路豆ちゃ新宿 / オトノハカフェ / カナルカフェ / カフェボーグルビー / 切麦や甚六 / グッドモーニングカフェ早稲田店 / 讃岐のおうどん花は咲く新宿戸山店 / サンサール新宿店 / 三朝庵 / 消防博物館 / 新宿歴史博物館 / 春水堂飯田橋サクラテラス店 / つぶつぶカフェ+ボナ!つぶつぶ早稲田店 / 戸山公園 / 肥後細川庭園 / ミュージアムテラス / ユニカフェ125
https://w.atwiki.jp/togakure/pages/10.html
商品の歴史とか
https://w.atwiki.jp/warawara08/pages/28.html
藁谷郁美研究会 2008年度春学期 個人研究・メディア発表 更新履歴 更新はまだありません 2008年度発表 分類タグ[伝統・歴史] 本文はまだありません
https://w.atwiki.jp/pam-iwate/pages/458.html
鉄の歴史館 「鉄の歴史館」は釜石にはじまった我が国の近代製鉄の歴史に光を当て、大島高任をはじめ先人達の業績など貴重な歴史資料を収集展示することで、多くの人々の記憶に長く留めたいとの思いを持って開館されました。 現在、観光の街づくりを進めている釜石のユニークな観光スポットとして、ダイナミックな音と映像による体験シアターや、ものづくり体験コーナーなど、楽しみつつ学べる展示構成も好評を得ています。 三陸来訪の折には、釜石大観音の背中越しにコバルトブルーの釜石湾を一望する「釜石市立鉄の歴史館」に、ぜひお立ち寄りください。 〈鉄の歴史館公式サイトより引用〉 鉄の歴史館 〒026−0002 釜石市大平町3丁目12番7号 TEL:0193−24−2211 FAX:0193−24−3629 パンフレット ※画像をクリックするとパンフレット(PDF)が開きます。 ホームページ http //www.city.kamaishi.iwate.jp/rekishikan/top.html (リンク切れの場合は、釜石市HP上にて確認をお願いします) 《ブログ》 09年春東北の旅14 http //blogs.yahoo.co.jp/sonae_circus/57946947.html 笑いが止まらない峠越え http //blogs.yahoo.co.jp/iori_dreams21/16734390.html 大平の展望台に登りました。 http //blogs.yahoo.co.jp/kakkey2001/31423819.html 仕事で鉄の歴史館に行ってきました。ミニSLが走っていました。 http //blogs.yahoo.co.jp/kakkey2001/27037126.html 仙人峠の紅葉 http //blogs.yahoo.co.jp/ksuz1967/26370261.html 釜石市(岩手県 http //blogs.yahoo.co.jp/moon_flower_siro67/43840210.html 釜石.鉄の歴史館です。 http //blogs.yahoo.co.jp/marin5162/10804406.html 岩手県・龍泉洞〜鉄の歴史館 5/3 http //blogs.yahoo.co.jp/murasita1210/37921785.html 釜石 〜鉄の歴史館〜 その2. http //blogs.yahoo.co.jp/yuuzan54/40522032.html 釜石 〜鉄の歴史館〜 その1 http //blogs.yahoo.co.jp/yuuzan54/40509005.html 釜石・鉄の歴史館 http //blogs.yahoo.co.jp/namiki21kamiiida/14975384.html 2006年第10回大旅行その32(釜石市立鉄の歴史館2) http //blogs.yahoo.co.jp/shigeaki0430/18652454.html 2006年第10回大旅行その31(釜石市立鉄の歴史館1) http //blogs.yahoo.co.jp/shigeaki0430/18645304.html 携帯サイト 最新のチラシ imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 《周辺情報》 観光船はまゆり…揺れの少ない双胴型高速船です http //www.city.kamaishi.iwate.jp/index.cfm/8,353,46,245,html シープラザ釜石…交流・交歓による情報の拠点 http //www.city.kamaishi.iwate.jp/index.cfm/8,354,46,245,html 御箱崎(千畳敷)…花崗岩の巨大な奇岩が敷きつめられた http //www.city.kamaishi.iwate.jp/index.cfm/8,344,46,244,html 根浜海岸…美しい白浜の海水浴場です http //www.city.kamaishi.iwate.jp/index.cfm/8,345,46,244,html 和山高原…風車43基が建設されています http //www.city.kamaishi.iwate.jp/index.cfm/8,347,46,244,html 五葉山…ホンシュウジカやニホンザルなどの住む http //www.city.kamaishi.iwate.jp/index.cfm/8,349,46,244,html シープラザ釜石…地元特産品のお土産店のほか http //www.city.kamaishi.iwate.jp/index.cfm/8,354,46,245,html 釜石大観音…胸元は展望台になっており、釜石港を一望できる。 http //www.kamaishi-daikannon.com/ 鉄の歴史館…鉄の総合的な資料館 http //www.city.kamaishi.iwate.jp/rekishikan/ 呑ん兵衛横丁…懐かしい雰囲気を醸し出す旅行客の癒しの場 http //www.city.kamaishi.iwate.jp/index.cfm/8,357,46,245,html 釜石市郷土資料館…市民の手作りの資料館 http //www.city.kamaishi.iwate.jp/kyoudo/index.html サン・フィッシュ釜石…新鮮な海の幸のほか、山の幸やお土産品、お http //www12.ocn.ne.jp/~sunfish/ 〈ブログ2〉 #blogsearch /